2020-02-25 第201回国会 衆議院 予算委員会第七分科会 第1号
由良川というのはちょっと水害が多い川なんですけれども、由良川を有する京都の北部の福知山という市内なんですけれども、今、大河ドラマで「麒麟がくる」という番組をやっておりますけれども、主人公は明智光秀ということなんですが、この明智光秀は織田信長を討った謀反人の悪人というイメージなんですけれども、福知山を流れる由良川の治水など善政を行った武将であるというふうに今言われております。
由良川というのはちょっと水害が多い川なんですけれども、由良川を有する京都の北部の福知山という市内なんですけれども、今、大河ドラマで「麒麟がくる」という番組をやっておりますけれども、主人公は明智光秀ということなんですが、この明智光秀は織田信長を討った謀反人の悪人というイメージなんですけれども、福知山を流れる由良川の治水など善政を行った武将であるというふうに今言われております。
私の地元である京都府北部にも由良川という一級河川がございまして、その近くに大河ドラマ「麒麟がくる」の明智光秀が築城した福知山城がございまして、その昔、光秀が治水事業を行ったそうですが、歴史的にずっと水害に苦しんでおります。一昨年の西日本豪雨までの直近五年間で四回の水害に見舞われてきました。
○二之湯智君 史実をねじ曲げて、ここが名所やの、ここが明智光秀のゆかりの地ですというようなことまでは申しませんけれども、できるだけ地方の声に耳を傾けてあげていただきたいと思います。 最後に、NHKでよく「日曜討論」とか、いろんな番組ありますですね。
大河ドラマとしては初めて明智光秀を主役として、戦国時代の英雄たちの姿を、最新の研究を参考にしつつ、新しい解釈で、従来のイメージを覆す新しい人物像として描いていこうというふうに考えております。 様々な地域から大河ドラマへの御要望をいただきますが、これまで申し上げたような観点から総合的に検討していこうと思っております。
京都府では、明智光秀のゆかりの地の自治体の方々が知事を先頭に、できるだけ明智光秀をドラマとして取り上げてほしいという運動を平成二十三年からやっていたんですね。その都度、NHK行くと、会長もお会いになったか分かりませんけれども、木で鼻をくくったような返事だった、もう取り付く島がないと。一体、NHKの大河ドラマというのはどういう基準で選ばれているのか。
これは何回も会長にはお願いしているんですけれども、京都北部、いろいろ、明智光秀とか細川ガラシャ、細川幽斎、これに関連する、非常に、史跡、名勝がたくさんありますので、ぜひ地域を盛り上げるためにもロケーションを多くのところでやっていただきたいというお願いを何回かしているんですけれども、これについて改めて会長のお話を聞かせていただきたいと思います。
質問時間が来ましたので、最後にさせていただきたいと思いますが、ちょっと話はかわりまして、平成三十二年の大河ドラマ、これは、明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」に決まりまして、誘致活動を熱心に進めてこられた地元京都北部の皆さん、大変喜んでおります。
本日は、主に、日本に滞在する外国人の方々に向けての公共放送のあり方、これについて質問させていただきたいと思いますけれども、冒頭、まず、二〇二〇年の大河ドラマに明智光秀を主人公とする「麒麟がくる」、これが決定されまして、地元でも大変喜んでおります。地元関係者、京都北部、中部、大変盛り上がっております。
ちょっと私の地元京都におきましても、本能寺の変で有名になりました戦国時代の知将であります明智光秀、それから光秀の娘である細川ガラシャなど、ゆかりの地でありますので、地元の福知山市、舞鶴市、綾部市、宮津市、京丹後市等々、多くの関係市町村が一体となって大河ドラマの誘致活動も行っております。
○国務大臣(茂木敏充君) 京都というのは、恐らく、この地図にありますように、一般の人が思い浮かべる以上に南北に地域的に非常に長いという中で、その比較的中心部といいますか、に福知山ございまして、明智光秀が築城したということでも非常に有名な町でありますけれども。 福知山市、平成十一年から平成二十二年までの十一年間で中心市街地の歩行者、自転車の通行量が半減するなど大変厳しい状況の中にあると。
ところが、信長そして秀吉それから家康、これ以外にやはり明智光秀を私は忘れてはならないと思うんですね。ところが、明智光秀は、徳川幕府の歴史観によるんですかね、あれは謀反人だと、あれは裏切りだということがもう非常に日本人に根付いておるんですね。 ところが、明智光秀が支配していたといいますか城主であった京都府の亀岡市あるいは福知山市では、いまだに光秀まつりとか光秀をしのぶいろんな行事があるんですね。
明智光秀の最後の連歌の句で「ときは今あめが下しる五月かな」という、あの「しる」です。天下統一の統、統治の統、「統る」。日本は古語で、治める、統治することを「統る」と言ってきたわけですけれども、古事記では、その「しる」というのを知識の知という漢字を当てているんですね。つまり、「知る」ことが統治すること、治めること。これは物すごい、古代日本人の直観といいますか、本質をついていることだと思うんです。
この前のNHKのテレビ見ておりますと、福知山というのは実は明智光秀が地名も福知山と名付けたと、あるいはもちろんお城も造ったということで、福知山にとって明智光秀というのは非常に重要な方であると。 番組の中では織田信長と対比した形で生き様をやっておったんですけれども、その後、何か視聴者の方のアンケートを取ると、明智光秀の生き様の方が非常に賛成が多いと。
私の地元の郷土の偉人、明智光秀のお尋ねでございますが、実は委員の前に質問された尾立委員も同じ福知山の御出身でございまして、ともに明智光秀を尊敬しているわけでございますが、明智光秀という方は、今もお話しのように、城も築かれただけではありませんで、大変民生に意を用いられた方であったというふうに私は理解しております。
だから、それは、例えば織田信長が本能寺で明智光秀に殺されたのは史実だけれども、殺されなかったということを言ったって、それはフィクションだからいいでしょうと言われてしまったら、それだけで済んでしまうかもしれない。しかし、表現の自由という問題と、それぞれの国家のプライドの問題はどういうようになっていくんだ。
この郵政民営化の法案をめぐりましては明智光秀なる人物が話題になっておりますけれども、私名前がちょっと似ておりますが、光英の英の字が違いますので、どうぞ当面は御安心をなさっていただきたいと思います。時々私のところに郵便で明智光秀の秀の文字で封書が届くときがありますけれども、これを機会に認識を新たにしていただければと思っております。 さて、委員会での質疑も今日が二日目となりました。
昨今のニュースを見ますと、あるいは総理始めいろんな方々の御発言を見ますと、郵政問題というのは何か本丸という言葉が出てきたり、昨日は天王山、明智光秀という言葉も出てきて、さながら戦国時代みたいかなと思ったら、またステルスなんていう近代兵器の名前も出てきていて、何となく政治のドラマになってしまっていて、なかなか中身の議論というのがしっかりマスコミ報道でもされてないんではないか。
総理は昨日、どこかで、明智光秀にやられないように織田信長、頑張らなきゃ、こういうような趣旨のことをおっしゃったようですが、どうもパリ祭ということを考えますと、明智光秀にやられないように気を付けろ、織田信長ではなくて、むしろルイ十六世にならないように気を付けろと、こう考えていただかなきゃいけないんじゃないかと。
「ときは今あめが下しる五月かな」と詠んだのは、本能寺に討ち入る前に明智光秀が連歌の会で歌った上の句であります。 実は、昨日、全国の市長会の中で小泉内閣の改革を支援する市長会の代表の方が十数人激励に来てくれたんです。
その場合、明智光秀公はどなたになるのでしょうか。 愛知県の真ん中に岡崎城があります。家康公の生誕地として有名ですが、城の前には「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」という有名な家康公の遺訓の石碑があります。その横に、もう一つ遺言の石碑があります。そこには、こう記されております。
そこで秀吉が、高松城を攻めるか、あるいは取って返して明智光秀を攻めるか、そういう局面があった。今は全く同じ局面だ。二つの敵がある。財政改革、行政改革という今の当面している敵。そこに新たに景気対策という緊急の事態が、火の手が上がってきた。そのときにどうするか。これは各個撃破するしかない。しかし、一番緊急なものにまず当たるべきだ。その意味では景気対策を政府はやるべきだ。
そして、明智光秀だって、あれは単に感情問題や何かであるじに逆らったわけでもないのでありましょう。やはり彼には彼を支持した政治的な勢力がいたんだと思いますよ。総理のそういう改革、目覚ましい改革をやっていこうと、それを、みずからの身内にあって邪魔する勢力というのは、これはいっぱいいます。私は、自民党の中にかなり多いだろう、こう思っておりますが。織田信長は客気激しい気迫を持って諸改革をやった。
池田元首相の秘書官を務めた政治評論家の伊藤昌哉氏は、秘書は全部報告している、そうでなければ秘書でないんだ、明智光秀、そんな人にはお金を預けないんだと。政治家はみんな秘書のやったことだと言うけれども、そんなことは通らないですよ。絶対通らないです。 私はさらに解明をしようと思いますが、江副氏は八七年八月五日新行革審土地対策検討委員になっております。
それに最も近い、国民がよく知っている時代は一体いつだろうかということを調べてみますと、織田信長が本能寺におきまして明智光秀に殺されたこのときが天正十年六月二日、一五八二年でございまして、ちょうどいまから四百一年前なんです。
それで図書館でどういう時代かなということを調べてみたのですが、本能寺の変で織田信長が明智光秀に殺された、その日が天正十年六月二日なんです。それで西歴でいいますと一五八二年といいますから、ちょうどいまから四百一年前なんですね。そうすると、五億円ためるためにはそれよりさらに十六年昔から、いまの日本の紙幣で十万円ためてこなければいかぬのです。